211113

ここ数年、(実は)尊厳について考えている。もう随分前の話だが、友人と縁を切ったことがある。生来の怠惰のため、面倒くさくなって連絡を遮断したり、ふらっといなくなったり、忘れてしまったり、関係性の名前を変えたり(例えば、「恋人」を「元彼」と呼びかえたり)ということはしばしばあるのだが、明確に(というのは、すなわち主体的にということだが)縁を切ったと認識しているのは彼ひとりである。どうして彼は他人を踏みにじらないと生きていけないのだろう。他者の領域を侵害しないと生きていけないのだろう。あるいは、どうしてそんなに自己を拡張する強迫観念に急き立てられているのだろう。16世紀のスペインのような領土戦略で、いったい何を獲得し、守ろうとしていたのだろう。カントというよりも、小松左京パースペクティブで尊厳について考えている。

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『エリア50代』新潟公演初日を観た。50代、ダンサーとしてはピークをとうに過ぎ、指導や振付のステージに移行した「かつての」(無論、このカギカッコが重要なのだが)スターたちによる、3作品を上演する公演。新潟公演初日の出演者は、小林十市近藤良平伊藤キム。明日の楽日では、ゲスト扱いの伊藤キムの代わりに平山素子が出演する。公演プロデューサーも兼ねる小林の言によれば、「まだ身体のきく40代でもなく、レジェンドになれるもっと上の世代でもなく、ダンサーとしては非常に中途半端な年代」とのこと。

かつて日本のコンテンポラリーダンス華やかなりし頃、批評家の桜井圭介はそれを「コドモ身体」として肯定的に特徴付けた。ベジャールバレエ団全盛期のスターダンサーであった小林は毛色が違うが、近藤、伊藤はまさしくその時代の寵児である。かくて「コドモ」は「中年」になりしか、などと思いつつ舞台を眺めていた。冗談めかして、というよりも、身体の現前に打ちのめされていたといった方が適切かもしれない。「コドモ」とは、非(あるいは脱)訓育の比喩である。そして、それを(しかもバレエダンサーの小林を筆頭に)再帰的に(その不可能性も含め)体現する企画だとして観た。まあ、そんなことより、それぞれの祈りじみた踊りに素朴に感動した。祈りとは、意志ではなく、その放棄である。脱。